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【第三十一回】

  22  長子袁譚、字顯思、出守靑州。次子袁熙、字顯奕、出守幽州。三子袁尚、
  31  議。』袁紹躊躇未決。忽報、袁熙引兵六萬自幽州來、袁譚引兵五萬自靑
  68  紹大呼曰、『若不決死戰、必爲所擒矣!』奮力衝突、得脫重圍。袁熙  72  前往靑州整頓、恐曹操犯境。令袁熙仍回幽州、高幹仍回幷州、各去收拾
  75  臥病在牀。袁尚・審配緊守城池。袁譚・袁熙・高幹皆回本州。』衆皆勸
 154  袁熙、幷州取高幹、四路同破曹操。正是、

【第三十二回】

  42  爲掎角之勢。不一日、袁熙・高幹皆領軍到城外、屯兵三處、每日出兵與
  44  至建安八年春二月、操分路攻打、袁譚・袁熙・袁尚・高幹皆大敗、棄
  50  聽知曹軍自退、遂相慶賀。袁熙・高幹各自辭去。

【第三十三回】

   3  何人?』劉氏曰、『此次男袁熙之妻甄氏也。因熙出鎭幽州、甄氏不肯遠
  30  等處、聞袁尚敗走中山、乃統軍攻之。尚無心戰鬭、逕奔幽州投袁熙。譚
  65  操引兵入南皮、安撫百姓。忽有一彪軍來到、乃袁熙部將焦觸・張南也。
  74  曰、『今袁尚已投袁熙、取之當用何策?』修不答。操曰、『忠臣也。』
  78  且說袁尚・袁熙知曹兵將至、料難迎敵、乃棄城、引兵星夜奔遼西投烏
 100  幷州旣定、操商議西擊烏桓。曹洪等曰、『袁熙・袁尚兵敗將亡、勢窮
 117  倍道輕騎而進。田疇引張遼前至白狼山、正遇袁熙・袁尚、會合冒頓等數
 121  皆降。袁熙・袁尚引數千騎投遼東去了。操收軍入柳城、封田疇爲柳亭侯、
 133  日、夏侯惇引衆人稟曰、『遼東太守公孫康、久不賓服。今袁熙・袁尚又
 136  却說袁熙・袁尚引數千騎奔遼東。遼東太守公孫康、本襄平人、武威將
 137  軍公孫度之子也。當日知袁熙・袁尚來投、遂聚本部屬官商議此事。公孫
 138  恭曰、『袁紹在日、常有呑遼東之心。今袁熙・袁尚兵敗將亡、無處依棲、
 143  却說袁熙・袁尚至遼東。二袁密議曰、『遼東軍兵數萬、足可與曹操爭
 153  報遼東公孫康遣人送袁熙・袁尚首級至、衆皆大驚。使者呈上書信。操大
 156  今聞袁熙・袁尚往投遼東、明公切不可加兵。公孫康久畏袁氏呑

【第九十一回】

  47  次子袁熙之婦、前破鄴城時所得。後生一子、名叡、字元仲、自幼聰明、

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2003年11月からの
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